高校の卒業時、クラスメイトの一人には、芸人になると思われていた。
…今福くん、君の予言は当たったよ。
でも、あの当時の私は「芸人じゃないよ、ダンサーになるんだよ」と言っていた。

在学中から所属していた俳優養成所の仕事も、幾つか経験した。
ドラマのエキストラや、事務所所属アイドルのバックダンサーなどなど。 
こんな事したくて入ったんじゃないのにな、なんて思ってた。生意気な研究生である。 

バイト、レッスン。そして、半期遅れで入ってきた後輩との飲み会。それが日常だった。 

一口に「後輩」と言っても、俳優養成所のこと。実に色んな人がいた。 
小学生から10歳以上年上の人。 
私がよく連んでいたのは年上の後輩たち。 
彼らにはよく酒で潰された。 
毎晩、吐くまで飲まされた。一気飲みは当たり前。ハッキリ言ってバカだ。 
でも、凄くよくしてくれていた。 

ある日、将来の夢の話になった。 
「オレさぁ、やっぱ俳優じゃなくてダンサーになりてェんだよね」 
私は、彼らにそんな事を言ったと思う。 

次のレッスンの後、ダンスの上原一夫先生に呼び出された。 
「田中、お前ダンスの公演に出ない?」 
嬉しくて小躍りした。 
先生は 
「仲間想いの友達を持ったな」 
と、年上の後輩たちの名前を仰った。 

目頭が熱くなった。 
毎晩、馬鹿騒ぎしてるだけの仲だと思ってたのに、オレの夢の手助けをしてくれた…。 
彼らの好意を無駄には出来ない。 
「お願いします。オレを出して下さい!」 
翌週から上原先生のダンス公演のリハーサルが始まった。 

周りはダンスのプロとして舞台やテレビの世界で生きてる人たちばかりだった。 
ピルエット(片足での回転)を5回以上廻れる人がゴロゴロしていた。 

ヤバいとこに来ちまった…。 
でも、しがみつかなきゃ! 

当初、私は 
「劇団の子」 
と呼ばれていた。 
俳優養成所の生徒だから踊れない、お豆ちゃんだという意味である。 
しかし、負けたらダメだ、というプレッシャーなのか、彼らを出し抜きたい、という負けん気か、振り付けを覚えて休まずに練習しまくっていると、いつしか呼び名が 
「劇団の子」 
から、 
「田中(私の本名)」 
に変わった。 
それまで振り付けを間違って覚えていても直されなかったが、 
「田中、そこはこうだよ」 
と先輩たちが直してくれるようになった。 

舞台の本番は緊張よりも楽しかったし、嬉しかった。 
今から考えれば、ただの発表会に過ぎなかったのかも知れない。 
でも、その発表会のメンバーになれた事が嬉しくて楽しくて仕方無かったのだ。 

養成所を辞めて、上原先生のスクールに通おう。 
自然とそう思った。 

私たちの代は養成所を辞めていく人間が多く、残ったのはわずかに7人だった。 
養成所側としては、半期後輩のクラスと合同で卒業公演をさせたがっていたのだが、どうしてもやるんだ、と半ば自主公演、という形で卒業公演を行った。 
養成所から程近い、小劇場とは名ばかりの芝居小屋を借り、脚本、演出、振り付け、衣装など、全て自分たちだけで行った。 
私は生まれて初めて振り付けを作った。 
その頃の私は、当時まだラップミュージックと呼ばれていたヒップホップやハウス、レゲエなどのクラブミュージックを聴くようになっていて、やっぱりそういう曲を使いたがった。 
しかし、ジャズダンスしか習った事が無かったので、見よう見真似でtrfのプロモーションビデオなどから動きをパクって無理やり作った。 
その振り付けは、かなり詰め込み過ぎて踊りづらいものだったのだが、みんな頑張って踊ってくれた。 

名ばかりの卒業公演が終わると、即座に養成所を辞める旨を伝えた。 
別に引き留められもせず、私の俳優養成所での日々はあっさりと終わった。 

翌週からすぐにダンスレッスンを受けに、上原先生のスクールに通い出した。 
「ダンサーになるならバレエもやった方がいい」 
と薦められて、バレエのクラスも受けた。 

6歳上の登坂良樹さんという先輩が特に凄く良くしてくれた。 
彼は既にプロとして喰っていて、他のダンサーからも一目置かれていた。 
彼の主宰する『H.S.ART』という表現者集団に混ぜて貰い、何故か主演までさせて頂いた。 
ほぼ一人芝居、という過酷な舞台だったが、凄い嬉しかった。 

しかし、この頃の私は上手くなりたい為だけに踊るようになっていた。 
段々と踊る事が苦しく思うようにもなっていた。 

自由に踊るSAMさんみたいなダンスがしたいな。 
そう思う気持ちと、当時「FUNKY」と呼ばれていたストリートダンスを蔑視する先輩たちの意見に板挟みになっていた。 
丁度その頃、良樹さんが学生時代に所属していたという、立教大学のダンスサークル『St.Paul's Musical Company』、通称『M研(現・D-mc)』に入りたい、と思うようにもなっていた。 

当時、B.D.C.に通っていた比較的FUNKYに理解のある先輩に話を聞いたりして、聞けば聞くほどに踊りたい気持ちは焦がれた。
先輩の一人に「trfのSAMさんみたいなダンサーになりたい」と話したら、「え?SAMさんだったら代々木のB.D.C.で教えてるよ」と教えてくれた。
なかなか勇気が出なかったが、見学に行くとなるほど、FUNKYのクラスに丸山と書いてあり、大勢の生徒さんに囲まれてSAMさんがダンスを教えていた。
翌週、入会しようと行ってみるとSAMさんのクラスは代行で、スタッフの人に訊くと「SAMさんのクラスはtrfが忙しくて終わった」との事。
それを聞いた私は、入会せずに失意に打ちひしがれて帰ったのだった。

M研に所属していたスクールの友人をつてに、M研に入れて貰った。 
ジャズはもちろん、ロッキン、ヒップホップ、ハウスをやっている先輩たちがいて、自分がやりたかったジャンルはハウスというのだ、と初めて知る。
それからというもの、ハウスにのめり込み、鶯谷にあったキャロルというスクールの夏期集中講座に申し込んで、そこで講師をしていたSPICEのかつぞうさんと出会った。 
SAMさんともまた違ったハウスを踊るかつぞうさんのクラスは楽しくて仕方無かった。 
これだ、オレがやりたかったものはこれだったのだ!!!!! 

その頃の生活はというと、ジャズのスクール、M研とバイト、CLUB通いといった塩梅。 

六本木R?hallに初めて足を踏み入れた時、正直ビビっていた。 
CLUBが初めてだってバレたくなかった。 
しかし、周りで自由に踊るダンサーたちは手が届かないくらいカッコよくて、眩しかった。 
私は彼らの動きを観察し、真似する事を繰り返した。 
当然、同じようには踊れない。 
自分とストリートダンサーたちの壁の厚さを感じた。 
どうして、彼らは振り付けもなく自由に踊り続けられるのだろう? 
レッスンからダンスに足を踏み入れた為、そういう観念にとらわれていた。 


秋頃に高円寺にスタジオがオープンする、というフライヤーを手に入れた。 
講師にはSPICEのメンバー、SARAさんとKENさんの名前があった。
通うしかない。
オープンするや入会した。 

このスタジオはバレエ、ジャズも充実していたのだが、ハウスとロッキンのクラスがあり、しかも、ハウスは週に2クラスあった。当時としては珍しくハウスに力を入れていたスクールの一つだった。 

私はSARAさんとKENさんのレッスンに毎回出た。 
わからない事だらけだし、姿勢が良過ぎてダメ出しされまくったけど、ヤバいくらい楽しかった。 
当時のスタジオでの私の呼び名は「SARAっ子」。毎回クラスを受けていたからだ。 

4ヶ月くらい経ったある日、SARAさんに 
「田中くんさぁ、イベント出てみない?」 
と言われた。 
聞けば、他にも何人かでチームを組んで出るという。 
まだ早い、とビビる気持ちと、ジャズで幾つかの舞台に立ってきた自負とが混ざり合い、変な気分になりながら、
「やります!」 
と返事していた。 
こうしてSARAさんクラスの生徒の即席チーム、『さらまんた』が結成された。 

新宿の路上で練習を繰り返した。 
ビルのガラスを鏡の代わりにして踊る。 
それまで、リハーサルの合間にガラスで練習した事はあっても、毎回毎回外で練習するのは凄い新鮮で楽しかった。 
それまで知らなかったダンサーたちとも、隣で練習してるってだけで仲良くなれた。 
ストリートダンスは楽しいなぁ。しみじみ思った。 

しかし、イベント当日になって驚いた。 
出るのはR?hallの人気イベント『CONNECT』だった。 
SPICEやTR∀MP、GRASS、COPPERTONE、電撃チョモランマ隊、といった我々の先生たちのチームが出ているようなイベントだったのだ。 

こんなんに出ていいのかよ? 
かなり腰が引けた。 

本番は訳の分からないうちに終わった。 

二部は先生たちのチームが目白押しだった。今から考えると、ゲストチームだらけのショータイムである。 
よくこんなイベントが毎月やってるなぁ、とビックリするよな凄いダンサーたちが出演していたのである。 
観てるだけでワクワクして踊りたくなってくる。 
しかし、圧倒的なスキルを前にヘコむ。 

「さらまんた」は、一回の出演で自然消滅した。


SPICEみたいになりたい。 
毎日そんな事ばかり考えていた。

(続く)